元自衛官 荒谷 卓

武道教育新聞

明治神宮武道場「至誠館」荒谷卓館長は自衛隊の特殊作戦群初代群長として、その行動理念を武士道に求め日本の特殊部隊の礎を作った。特殊作戦群創設のエピソード等を聞きながら、武士道がいかに世界に誇るべき精神なのかを感じとっていただきたい。

◎荒谷卓インタビュー
(大タイトル)
自衛隊特殊部隊の武士道とは?

(柱タイトル)
いまの日本人が弱いのは、余計なものを持ちすぎているから。武道は入り身捨て身で命を捨ててかかるから強さを発揮する。

(柱タイトル)
自分が命を落としてもいいと思う仕事をしろ。意思貫徹を祈る!

(柱タイトル)
君は突然襲われたら、どうするか

―このほど「戦う者たちへ」(並木書房刊)を上梓されました。この本は誰向けに出されたんでしょうか。
荒谷 戦後体制の枠組みの中で相応の地位を得て活躍されている人ではなく、本当に日本人としての慣習を地道に守って生活されている人。そして戦後の世の中の仕組みに毒されていない若い人に読んでいただきたいですね。

―日本人の精神が弱くなっていますからね。自分たちに危機感を持っている若い人も多いようです。
荒谷 いまの日本人が弱いのは、余計なものを持ちすぎているからだと思いますよ。これも欲しい、あれも欲しい。だから、これもあれも失いたくない。そうすると何かがあった時に捨てたくないから立ち向かえない。武士道の観点から言えば、日本の武道の特徴は入り身捨て身だから、核心だけを残してそれ以外は捨ててかかる。命懸けなんだから財産や名誉にこだわる必要もない。そのくらいの気概があるから、武道は強さを発揮するわけです。

―特殊作戦群(特殊部隊)創設にあたって武士道を行動理念にされたのは、そこですね。
荒谷 そうです。武士道を体する者は、身を捨てて事にあたりますからね。身を捨てることを自己犠牲という方がいます。しかし、武士道精神の者は、犠牲などと思って行動していない。むしろ、肉体を保全して精神を曲げることを自己を犠牲すると感じる。つまり、精神の貫徹だけを追及しているのであって、肉体の犠牲は付随的に発生するだけの話だと思います。
ですから困難な状況にあたって、迷わずに精神を貫徹していけるかというところが武人としての鍛錬のしどころで、そこが大事なところだと思いますよ。いまの世の中にあっては、武士の気概を持つ人間が、ゼロにならないことが大切。1人でも2人でも、とにかく日本に存在し続けるということが国の守りの要だと思っています。
特殊作戦群を作った動機は、そういう人間が自衛隊の中に確実にいることを承知していたし、そんな人間がいまの自衛隊の組織の中にいると、憤りで悶々としている。そういう隊員たちに対して「報国の念揺るぎないと思う者は、特殊作戦群に集まって来い。ここでは、存分に精神貫徹できるような訓練と任務を与えるぞ」という思いもあってこの部隊を創ったわけです。「こういう部隊だが、来たい者はおるのか」と全国の自衛隊に発信したら、予想以上に多くの隊員たちが手を上げて来ました。日本も捨てたものじゃあないですね。

―選考検査はだいぶ厳しいと聞きました。
荒谷 自衛隊では、空挺とレンジャーの資格を持っている隊員は自衛隊でも相当優秀とみなされていますが、この資格を持っていないと選考検査も受けられません。そして、その中から戦闘者としての精神が本物かどうかを見極めていかねばならないわけで、実際には、だいたい3割しか残らない。

―一気に3割ですか。それはどのような選考検査ですか?
荒谷 肉体的な疲労にかけてはタフな連中ばかりなんです。だから、肉体的検査とはいいながら、実際には精神的ストレスを常に与えて、その耐久力を見る。たとえば「腕立て百回」と言えば、百回で終わりだなと精神的に楽なんです。しかし「はい、腕立て伏せ」と言うと、いつ終わるかわからない。このように、全てにおいて、精神的に負荷がかかる状況を用意する。その中で任務を与えて、心が折れずに完遂できるかどうか観察する。そのためには、誰にも頼らず、何とかして自分でやり抜かなくてはいけない。一度や二度の対応では、問題は解決できません。答えが見えない状況でも、適確に行動するにはある程度のひらめき、いわゆる知恵者と呼ばれる頭の良さがないと対応できません。例えば、圧倒的多人数の敵の中でのかなり緊迫した状況では、相手と戦ってはすぐにやられる。だから、相手の戦闘意思を沈めて、説得してこちらの味方にしなくてはいけない。パニックになりそうな厳しい状況でも頭が働いて体が動くかを見るんです。

―過酷な試験ですね。
荒谷 最初の選考検査だけで2週間くらいかけて行ないますし、それに合格したら、さらに1年間教育するんですが、その1年間も選考なんです。

―まさに選り抜きですね。
荒谷 1年間の教育では、1ヶ月以上、まったく外界と連絡をとってはいけない状況もあります。それだけでストレスがたまります。家族だとか恋人だとか、いろんな人間関係を1ヵ月以上、捨て去るということができない人がけっこういます。「元気だから、心配するな」という連絡もとれない。家族がどんな状況なのかも知ることはできない。戦場に行くのと同じですね。

―相当な魂を持った人間でないと残らないですね。
荒谷 そこを通らせないと本当の任務の時に役に立たない。マイホーム的な人は無理です。たとえば地方から教育を受けに来ます。子供が生まれてまだ何ヶ月という隊員も来る。来たら、いきなり家族と連絡が取れなくなるわけです。

―そこまでしなければ、いけないんですね。
荒谷 わたし自身が、他の国の特殊部隊の経験をして、必要なものは取り入れた。しかし、基本は日本流のものを創りたいと思ってました。

―そのような選考検査をしてわかったことなどもあるかと思いますが。
荒谷 志が高い隊員でも、誰かが指示をしてくれるのを待ったりするわけですよ。でもこちらは何も言わないんです。そうすると、困った顔をするんです。しかし、知らん顔をする。とかく、軍隊はこまごま支持したがるのですが、それはだめ。何も言われないのに、何かを察してとにかく動いていくということが絶対に必要です。最近の日本人は自分から何かをやるということは少なくなっているのかもしれません。それじゃ特殊作戦をやった場合、まったくダメなんです。特殊作戦というのは最初に任務はもらうが、その後、いちいち指示できない環境に行ってしまうわけですから。現地の状況をふまえて、自分の判断でやっていかねばならないですから、指示を待っているような隊員は使いものにならないんです。

―たとえばイラクにも特殊作戦群の隊員が付き添いましたが、役に立ったなと思われたことは、どんなこと?
荒谷 現地では、最初は他の国の軍隊と同じような目でみられて警戒される。ですが、現地の人と会話を通じて、少しずつ相手の心の中に入っていく。たかだか3、4ヶ月ですけど。現地の人から「お前はお父さんかお母さん、イラク人だろう。そうじゃない? じゃあ、おじいさんかおばあさんはイラク人だ。間違いなくお前には俺と同じ血が入っている」と言われるほどの関係を築いた。

―凄いことですね。
荒谷 そのくらい、真心を尽くして向き合っていた。彼らの気持ちとしては、別に多国籍軍の政策の中でやっていこうという考えはありません。イラク人の復興のために、真心をこめてやってこいと言ってある。だって政府は、『法律はできた。はいどうぞ。』ってな具合で命令を出し、「皆さん無事に帰ってくることを祈ります」とか言って終わりです。そんなもののために命を落とせるか。命懸けになれるか。自分が命を落としてもいいと思う仕事は、自分で見つけるしかないんだ。それがあるものだけ、イラクへいってこい。武運長久、意思貫徹を祈る。と言って、毎回、水杯で彼らを見送ったんです。彼らも「帰って来られるかどうかはわかりませんが、間違いなく自分の心に恥じない活動をしてまいります」と言ってイラクに行ったんです。

―現代のサムライですね。
荒谷 私はそういうことを隊員に求めました。それが現代の「武士道」だと考えている。派遣された部隊の中で特殊作戦群の人間はほんの数名ですよ。「派遣中に、部隊は重大な事態に遭遇するかもしれない。不安になった周りの者たちはお前たちを見るだろう。その時にお前たちが、どういう態度をとるかで部隊がパニックに陥るか、いい動きをするかが決まるんだからな。さらに、現地の人たちの前でうろたえたりしてはいかん。たとえ爆弾で死人が出ても、先ず現地の人を気遣え。仲間の死体は静かに片付けて、ちゃんと掃除をして引き上げろ。」というようなことを話しておきました。そしたら、第一次の派遣早々、基地の中に迫撃砲弾が落ちた。その時案の定、特殊作戦群の隊員のほうをみんなが見たそうです。それで「さあ、ここからだよ、俺たちの活動は」と声をかけ、気持ちを落ち着かせた。こうして部隊は、落ち着いた活動したということでした。
ここで大切なのは、そういう状況を最初から頭に描いて、こういうときにはどうするのかということをたえず考えていなければならないということです。すると、ひょっとしてあるかもしれないなと思っているだけの者と差が出てくる。まず精神を鍛えて、自分が意思貫徹できるかということを、いつも思っていないといけないんです。
しかし、そういうことは、人が教えてくれないんですよ。教えたくても本人がその気にならないと伝わらない。たとえば、道場で稽古をしても、本人が意識していないと心の鍛錬は難しい。むしろ、自分の身の周りで現時に起きていること例えば、、自分が秋葉原の事件に遭遇したら、自分だったらどうするべきなのか。または何が出来るか。ということを真剣に考えたほうがいいでしょう。そういう想定を、繰り返すということ。そうやって、イメージの中で精神を鍛えていく。心も鍛錬しないと実戦には役に立たないですよ。

―いまいろんなことが周りで起きる。日ごろの鍛錬が必要なんですね。
荒谷 電車に乗っても町を歩いていても、目つきの悪い人間とか、そわそわしている人間とかを見ます。その時に、その人間がたとえばナイフを出して暴走したらどうするか。自分のなすべき対応をどうするのかを考えていく。そういうことをやっていかないと、たとえ道場で漫然と稽古をしても、実際に役に立つものにはならないでしょう。

―道場でちゃんと稽古をしていたら、身のこなしなどは大丈夫ではないですか?
荒谷 例えば、いま教えている自衛官のクラスでは、みなそこそこ技が出来るようになっているんですが、右と左に分かれて、木剣を持たせて「さあ、戦え!」と打ちかからせる。たまにそういうことをやらせるんです。そうすると、それまでうまくできていたはずの技が全く使えなくなる。集団の激突状態では、技もへったくれもないものになるんです。下手に技にこだわると、ビビッたり、へっぴり腰になって、相手の剣を受けることばかりしたり。ですから、それよりは腹を据えて、相手の剣を気にせず、こいつと決めた者にこっちの一太刀を浴びせるかどうかの精神力が大事だということがわかる。その精神の上に技が出てこなくては本物にはなりません。
武道をやるというのは実社会で実戦するのが前提ですからね。道場で鍛錬して終わり、というのは話しにならないですよ。

―その通りですね。
荒谷 作法も礼儀も、道場でいい作法で、いい礼儀をやっても、社会でダメだったらダメなんですから。
道場に習いにくる初心の人に「どうして武道を習いたいと思ったのか」と聞くんです。すると「襲われた時のために」と言う人がいました。襲われた時に反応するというのは、実際では、どっちが先に手を出したかというだけです。この場合、相手が襲ってきたときに「理由も告げずに不意に人を襲う卑怯な精神は許さん!」と思って反応するんだったらいい。心構えの質が違いますから。そういう心構えを持っていれば、他の人間が襲われた時にも同様に、襲うものを許さないということにある。ところが、単に自分が襲われたから、反撃するという心根では、目の前で他人が襲われていても、自分はさっさと逃げてしまうでしょう。何のために、武道を学ぶか。その動機はとても大事なことなんです。

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