元自衛官 荒谷 卓

日本民族のナショナリズム

『時事評論』より

明治神宮至誠館館長
荒  谷    卓

戦後日本では、日本民族のナショナリズムは危険なものとみなし、日本人が二度と民族の伝統的精神により団結しないように、日本民族の歴史から断絶したエコノミックアニマル社会を構築した。また、国民に対しては日本人の記憶から先祖の歴史を抹消したクローンのような人間になるべきことを教育とメディアを使って啓蒙してきた。
現代の日本人は、動植物などの遺伝子組み換えの危険性は認識して問題視しているはずだが、なぜか日本人自身が、有害な遺伝子組み換え生物になることには、いまだに積極的に取り組んでいる。実に不思議な現象である。

一方、他国民のナショナリズムには積極的に理解を示す日本のマスコミは、尖閣沖衝突事件をきっかけに、中国国民の反日ナショナリズムが拡大激化していると盛んに報道している。これは、中国資本に買収された日本のマスコミが、中国国民の怒りを強調することで、中国側の高慢なる交渉姿勢を正当化しようということか。また、日本人に対抗的反中ナショナリズムの芽が出てくれば事態はエスカレーションするかのごとき恐喝をして、日本人自らがナショナリズムの芽をつぶすように働きかけているのだろう。

私たちは、何者かによって意図的に使い分けられているこの『ナショナリズム』という言葉をもう一度確認する必要がありそうだ。ナショナリズムとは、一般的に、民族や国民の集団的結束を促す運動あるいは思想といわれている。したがって、共同体としての国民意識が不可欠の国家にとって、ナショナリズム自体を否定することはできない。むしろ、民族あるいは国民としての結束の大義が、道義的で包容力のあるナショナリズムは、世界全体の発展にも有益なものである。しかし、政権的権力の形成維持のために使われる排他的ナショナリズムは、明らかに不健全で危険である。

日本の近代史では、士族の民族ナショナリズムが明治維新を推し進め、大衆化した国民国家ナショナリズムが満州事変から大東亜戦争への道を推し進めたと考える。
幕府が米国の不当な強圧に屈し、井伊大老が朝廷を無視して米国と条約を締結したことを直接の契機として、日本の歴史への責任を一身に負い給う孝明天皇の御苦心が明治維新の原動力となった。『神国を汚さざる様との懇念』と勅書にしたためられたように、尊皇攘夷の民族ナショナリズムは、孝明天皇の身を犠牲にしても日本を守らんとする大御心を中核に誠心忠義の志士が立ち上がった運動である。
大政奉還が成ると、徐々に西洋の近代国家思想に犯された者が政府の要職を占めることとなるが、明治天皇の御親政により日本的政治道徳は機能していた。
しかし、大正三年、袁世凱政権に突きつけた二十一ヵ条の要求のように西洋的権益重視の姿勢が強まり、漢民族のナショナリズムを刺激することとなる。もちろん、これに対しては、犬養毅の国民党や原敬の政友会等大いに反対の意見があった。さらには、辛亥革命以前から袁世凱政権打倒の第三革命のころまで、孫文等を助けて中国革命の前線に身を投じてきた黒龍会の内田良平や玄洋社の頭山満等純然たる日本民族派の活動家が多数存在した。
だが結局、袁世凱に排日運動を扇動する機会を作った大隈・加藤外交による二十一ヵ条要求は、五.四運動以降、中国における排日ナショナリズムとして定着拡大する。
さらに、一九二七年に中国の暴徒が日本人を含む外国人を多数殺傷した南京事件が起きたとき、米国や英国は即座に軍事力で対抗処置を取ったが、これに対して支那との友好を優先して対抗処理をとらなかった幣原外交が、逆に『日本は弱い』と見られ、排日運動を激化させ、同時に日本人の反中感情を高めることになった。結果的にこれが満州事変そして大東亜戦争へとつながっていくわけだが、この日中双方の対抗的ナショナリズムは、明らかに国家主権に基づくナショナリズムの色彩が強い。

今起きている中国国民のナショナリズムは、当時と全く同じ性格のものである。さらに現在の中国は、海洋権益を拡大せんとしていることから、排日運動の範囲も自ずと拡張する。
これに対して、日本人としての正史を教育されてこなかった戦後の日本人は、正統なる歴史的日本民族のナショナリズムを持ち合わせていない。しかし、そもそも日中が衝突したのは、双方とも民族ナショナリズムが原因ではない。むしろ、日本民族ナショナリストは、漢民族の自立に共鳴し命をかけて戦った。また、正統な漢人なら、民族の正史とする『史記(太史公書)』に記された聖人帝舜の徳に鑑み、到底排日運動のような愚行には及ぶまい。
日中が再び戦わざるをえない原因は、伝統的民族精神とは無関係の国民国家としてのナショナリズムである。つまり、主権、領土、国民を持って国家とする近代国民国家思想に基づく排他的権利の主張だ。
国民国家において、国家運営に責任を有する政府が、自国の主権、領土、国民に対する侵害を許容するということは、反国家的行為であり、国民を代表する政府としては、国家運営の責任を放棄したに等しい。したがって、中国国民の排日ナショナリズムが日本の主権、領土、国民を侵害するものであれば、当然のこととして、日本国民も反中ナショナリズムに立たざるをえないのである。これは、最終的には戦争にまで発展する可能性があるが、主権、領土、国民を犠牲にしては存続できない国民国家にとって避けることはできない。
もっとも、戦後日本は、主権も領土も国民も犠牲にして経済活動だけに没頭してきていることから、国民にナショナリズムが芽生えないまま国家は崩壊し、日本人はかつて大陸で起きたように中国人に惨殺される可能性も高い。その場合、国と国民を売って金持ちになった日本人もどきの経済人だけがのうのうと生き残るのかもしれない。

さて、この排他的で妥協を許さない国民国家のナショナリズムに対して、歴史伝統に基づく民族的ナショナリズムとはいかなるものであろうか。それは当然、それぞれの民族ごとに性格を異にする。現代の国民国家の性格は憲法によって表されるが、民族の性格は神話によく表れている。なぜなら、現代では憲法のような法秩序をもって国民の統一性を確保するように、古代国家においては、統一された神話と系譜によって、個々の氏族を民族として集団化したからだと思う。
日本では、『古事記』をもって民族の統一性を確たるものとして定めた。つまり、日本人の民族的ナショナリズムは古事記に記された神話と天皇の系譜が原点となる。そして、明治天皇の御製に「わが国は神の末なり神まつる昔のてぶりわするなよゆめ」と詠まれているように、日本神話に記された神々の精神と行為をそのまま規範とし現代にまで伝えているのが神道(神ながらの道)であり、現代においても、我々日本人は、神道を通じて先祖たる神々と同じ精神と行為を継承している民族であるといえる。
したがって、日本民族のナショナリズムを知る上で、神道を知ることは重要なことである。

しかし、先にも述べたように、戦後は、教育の現場でもメディア上でも、日本民族のナショナリズムを攻撃の対象としてきた。そのなかでマインド・コントロールを受けた日本国民は、自らのルーツである日本民族の本質を知ることもなく、ただただ教育とメディアの言葉を信じて、自らのアイディンティティを否定し続けてきた。
そのような戦後日本人に、少しばかり神道について考える素材を提供したい。
明治神宮至誠館では、日本の神道と武士道を探求したいと考える海外の門人を対象に、国際至誠館武道講習会を開催している。この夏は、ロシアの首都モスクワとポーランド北部の都市プォツクで実施した。

ロシアでの講習会は今回が初めてで、現地に赴いて問題があることに気がついた。至誠館武道は、国内でも国外でも神の御前で稽古するのを常とする。神棚のない国外での稽古では、先ずは稽古場を祓い清め、ヒモロギを立てて神事をとりおこなう。つまり神道の御祭りである。講習会の参加者は、皆礼儀正しく武道に対する深い造詣があるのだが、大多数の参加者が敬虔なるロシア正教徒であった。
実は、我々の通訳をしてくれたユリアさんも、至誠館にたびたび稽古に訪れているロシア人の道場で5年間稽古をしていたそうだが、神道の神棚を置いたことが理由で、その道場への出入りを止めたということであった。
こうした状況を踏まえて、講習会開催前に、参加者全員に神道と武道のかかわりについて説明することが必要であり、さらに言えば、それこそがこの講習会の最大のテーマであると感じた。
そこで、講習会に参加する各道場主を集め、神道と武道の関係、講習会で神事をする意義を次のように説明した。
講習会で稽古する『鹿島神流』は、戦場の闘いから生まれ、後から精神的意義付けをしたものではない。日本の神話のなかで、不殺によって国譲りの大任を成し遂げた武の神『健御雷神(タケミカヅチノカミ)』を祀る鹿島神宮の神官が、神への祈りを通じて授かったものである。その『健御雷神』の神武(形而上)の精神と、それを形にした(形而下の)武術として完成したのが『鹿島神流』である。このように、日本の武道は、精神と術技が一体であり、それは神との関係をなくしては理解できないものだ。
祓い清めた道場に、その土地の常緑樹をヒモロギとして立てる意味は、この土地の神、参加者の信仰する神、そして我々日本人の神々が降り立つ所を設けてお呼びするためである。そして、それぞれが崇敬する神々の御前で、神の心に通じる正しい精神と技を練武することこそが武道の本旨である。
生まれた土地や伝統文化が違う人々がそれぞれ異なる神を信仰するのは当然のこと。それぞれが信仰する神々に、お互いに敬意を払い、神の心を我が心として練武に励むからこそ、日本の武道には敵対する相手をも包容同化し、真の平和の精神が生まれる。
また、日本の神話では、ある神が自らを唯一絶対として他の全ての神を否定し排除するようなことはしない。例えば、伊勢神宮という日本の中心的な神社の杜には多くの神様のお社が立ち並んでいる。一つの神社の杜に、八百万の神々が共存しているということで、人間も共存できることを示唆しているのだ。
講習会開始当日、神事の前に参加者全員に対して同じ説明をした。その後、全員で雑巾がけをした道場にヒモロギを立て、神事により祓い清めて稽古を開始した。
結果は、神棚を中心に参加者全員の心が一つにまとまり、睦まじく清々しい講習会となった。あれほど心配していた通訳者のユリアさんは「この講習会の稽古には祈りが感じられる」「参加者は全員、心の明るさ、純粋さに満ち溢れていた」「(彼女が知っている)参加者が、これほど美しい笑顔を見せたことを今まで見たことがない」との所見を述べてくれた。私は、日本の神道と武道の真の平和の力を実感し、あらためて、日本の伝統文化のありがたさを思い知ることができた。

ポーランドのプォツクでの講習会では、次のようなことがあった。
イギリスからの参加者で道場主でもあるポール・スミス氏の友人が死亡したという連絡が入った。その友人は、キリスト教系のNGO団体の医療ボランティアとしてアフガニスタンで活動していたところ、タリバンの襲撃に遇い殺されたというものだ。
ポールの悲しみを察し、講習会に同行していた明治神宮の神職が、その友人の『御霊鎮の儀』をとりおこなうことを提案した。翌朝、武道場の近くの松の木を参集者の祈りのよりしろとし、友人の御霊が帰るであろうロンドンの方角に向かって祭詞を奏上した。その祭詞の内容は、亡くなった友人が崇敬していたキリスト様を呼び出し、キリスト様のお力で故人の御霊を安らかに鎮ませ給えというものであった。
神道では、全ての人が世界中のあらゆる神々に対し崇敬の念をこめて祈りをささげることができる。世界の紛争の大半が排他的宗教あるいは排他的イデオロギーによって引き起こされてきた。もし、全ての宗教的あるいは政治的境界を越えて、それぞれの民族や国民が崇敬するものに対し、他の民族や国民が祈りをささげることができたとしたらどうだったろうか。そう考えれば、八百万の神々を敬う神道の意義が、どれほどすばらしいことかわかるだろう。世界の人々が、相互に価値観を認め合うことで、あらゆる平和理論を越えて、人類が心から和する真の平和を実現できる可能性があるのだ。

もう一つ、最近の至誠館の武道講習での出来事を紹介しよう。
至誠館では、年の初めから、一年を通じて折々に『禊』をする。この秋には、海外の武道場指導者を対象とした一週間の神道と武道の講習会を開催した。武蔵御岳山の宿坊に泊まり、山中にて朝夕の禊をした。参加した海外武道指導者には、『禊』について今泉定助先生の考えを元に次のような説明をした。
日本の神話では、先ずは宇宙に中心が生まれ、その中心からビッグバーンのように拡張するエネルギーとブラックホールのように吸収するエネルギーが顕れる。これに神様の名をつけて、天御中主神(アメノミナカノヌシノカミ)、高皇産霊神(タカミムスビノカミ)、神皇産霊神(カミムスビノカミ)とよんだ。これは宇宙の呼吸であり、産霊活動であって永遠に続く。この活動から全ての神々が生まれ、その子孫として宇宙万物が生まれてきた。だから神道では、万有全て神の子孫であると考える。
宇宙は渾然一体として存在し、太陽系は一つの統一体系を造り、地球上の万有万象もまた常に統一体として生成し発展する。この統一性を『直霊(ナオヒ)』とよぶ。
私たちは生まれながらに清浄なる神の子孫として『直霊』を有しているが、それは、宇宙(自然)全体の統一体として活動している状態のとき、最もその力を発揮できる。逆に、自然の統一体から分裂してしまうと『禍津日(マガツヒ)』となり穢れてしまう。禊祓とは、穢れを祓い『禍津日』の状態を修理治癒して『直霊』の状態に戻すことである。つまり、私たちが、自然と一体となって宇宙(社会)の生産・発展活動に大いに参画しようという考えである。
我々は、山中の滝に打たれて『水行』を行うが、これは、日本神話の中で、イザナギの神が黄泉の国の穢れを禊祓うときに行ったものだ。腐敗混乱した精神を摘出し淘汰して(『身削ぎ』)、気涸れ(けがれ)て疲労困憊した霊魂の活動を外部から大自然の霊気を注ぐことで回復活性化を図ろうというもの(『霊注ぎ』)である。
実際に山中で禊行を体験した彼らのうち数名は、人生観が変わったと言う。その後、鹿島神宮に参拝し境内の武徳殿で鹿島の一の太刀、明治神宮至誠館での組太刀・剣太刀の稽古を行っているとき、彼らは口をそろえて「禊と同じような気持ちになった」と感想を述べた。剣を振ることで、自分自身が禊がれる感覚を覚えるというのだ
これは、剣という武器を使って稽古をしていながら、殺伐とした殺人刀の精神に傾倒せず、むしろ人と社会を禊祓い活性・発展たらしめる活人剣の心境である。これこそが、理屈ではなく、人間の感性の力で神意を知ることができる貴重な経験なのである。

日本人が、このような民族精神に立ち返り、本来の日本人としてのナショナリズムを再現できれば、何を危険視する必要があろうか。
日本民族のナショナリズムは、国民国家の権利の争奪戦のため意思統一を図るような排他的ナショナリズムとは本質的に異なるのである。それどころか、神は一柱でなくてはならないという争い、イデオロギーは一つでなくてはならないという対立、昨今は、世界を一つの市場によって管理し金が人類と地球上の全生物・全資源を支配するという本末転倒の社会から人類を救済し、地球上のそれぞれの土地にあった生活秩序を全体として受け入れ、民族の自立と共存、人類と自然との共生、そして、人々が神々(大自然の法則)と共に生きる道を提案するものである。
私は、日本人が民族ナショナリズムを正しく体顕すれば、協和共生の大精神と具体策を世界に顕すことになると信じる。まだ、手遅れではない。日本には、山や海で神々と暮らしている人々がいる。日本人が日本人であることに自信と誇りを持って生きることが、世界の人々にそれぞれの伝統文化の原風景を取り戻す意義を問いかけることになるだろう。

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