元海上自衛官 伊藤祐靖

久しぶりのミンダナオ島

現職の海上保安官がYoutubeに尖閣諸島漁船衝突事件の映像を投稿し話題になった。世の中の関心は、投稿したとされる海上保安官の氏名や中国人船長の生活ぶりだったが、私にすれば、そんなことはどうでもよかった。
そんなことより、“もし自分が巡視船を操船していて、こんなぶつかり方をされたら、その場で血液温度は100°Cを越えただろう。自分が海上保安官だとか、相手が中国人だとか、海域が尖閣沖だとかの問題ではない。一人の人間として意図的にぶつけてきた奴と対峙しようとする感情を抑えることが非常に困難であることは間違いない。こうした感情は私特有のものではないであろう。その場に居合わせた人間であれば誰しもが禁じ得ないはずである。しかし、現場の海上保安官は、中国人船長達を冷静に逮捕し、送致、書類送検した。公務に就いている最中のことであり、私情を抑えるのは当たり前だとはいえ、それがどれほどの苦痛を伴うか容易に想像できる。ところが、あろうことかその数日後、何と中国人船長は、起訴猶予となり釈放され中国へと航空機で凱旋帰国した。
そのニュースを聞いて思った。「一体誰なんだ? 誰が釈放なんて思いついたんだ? 更に、そいつの言いなりになって、中国人船長を無罪放免した奴、要するに鍵を開けた奴は何処に住んでいるんだ?」現場にいて、私情を押し殺し公務に徹した海上保安官は勿論のこと、日本の公務に就くすべての者が、やりきれない気持ちでこの光景を見たであろう。国家に意思が存在しないこの事実を知り、むなしく、悲しく、たまらず涙を流した者も多いに違いない。しかし、誰一人それを露ほども表に出さず、粛々と訓練または、実務を続けている。私がミンダナオ島から日本に戻り、何をしたら日本という国は戦後を始められるんだろうと悩んでいる間に、日本が壊れていく。何もできないで“もんもん”としている間に、どんどん落ちていく。そして、その矢面にいるのは、必死で公務をまたは、職務を遂行しようとしている者達だ。
この時の私は、某警備会社に籍を置き、アドバイザーのような勤務をしていた。社内では過分な待遇を受け、それなりの現金収入もあり、落ち着いた平穏な生活だった。ふと我に返ると、一体何の為に自衛隊を辞め、ミンダナオ島に行き、そしてこの日本に戻ってきたのかが、全く判らなくなっていた。漁船衝突事件で沸き上がった納めようのない焦りと自分への不甲斐なさは、平穏な生活と相まって、どうにもならない自己嫌悪へとなっていった。「行き詰まったら原点に戻るしかない。ミンダナオ島に立ち返ろう。あそこに向かった時の気持ちからやり直そう。必ず、何かが見えてくる」そう思って、その警備会社の代表取締役に心の全てを話した。激高され、切り捨てられて当然の話だったが、代表取締役は、黙って聞いてくれた。最終的に退職を願い出ると「判った。ちょっと、休んだら? ミンダナオ島に、行ってきたらいい。日本に戻ってきたら、話を聞くよ」。社会的には、許されがたい私のワガママを受け止めてくれた。そして、その後も懇意にして頂いている。照れもあって、なかなか感謝の意を口に出すことはできないが、こういう存在なくして、自分の活動なんか成立しようがない。

数日後、ミンダナオ島に降り立った。初めて訪れた時の気持ちには、なかなかなれなかったが、鮮明に思い出してはいた。「いよいよ始まる」というあの時の記憶は蘇ってきた。拠点に着き、半地下の自分の部屋への階段を降りていると、突然、錯覚とも現実ともつかぬ感覚に陥った。
どういうわけだか、自衛隊退職直前の特殊部隊で、私のチームのチーフ(先任下士官)をしていた者がミンダナオ島で死んでしまい、その事後処理のために自分がここに来たような気になっていった。ジャングルで生活するための道具や拳銃、ライフルの装備品、スコープや消音器、刃物は、水中格闘用ナイフ、ジャングルでの山刀、鉈のような対人用ナイフ、潜水用具は、ロングフィン、水中銃、ボンベ類、フリーフォール(パラシュート)用の高高度計までがあった。すべての装備品の整備用具までが、昨日まで使われていたかのように整然と置いてある。全て自分が持ってきて、自分が整理して置いていたものだが、思わず息を飲んだ。ついさっきまで、誰かが強い意志を持ってここに生きていた気配が濃厚に漂っている。道具にさえ生きものの匂いがしているのを感じながら、思った。「バカだな〜、ジャック(チーフのコールサイン)は、こんな物まで持ってきて〜、こんなところで何をする気だったんだ? おまけに自分だけ死んじまって……」
どんよりとした気分で1年ぶりのミンダナオ島での時間を重ねるうち、次第に、当初ジャックに投影していたのは自分自身の分身・影だったことに気づいた。
自衛隊を辞めて、まっすぐにここに来た。知り合いもなく。どんなところかも知らなかった。射撃と潜りができて、治安がそこそこ悪いところを求めて来た。たくさんの幸運と執着心が重なって住み着くことができて、たくさんの貴重な経験をした。4年間だったが、20年の自衛隊生活より遙かに多くの事を学んだ。たくさんの出会いと、そして別れがあった。すべて死別だった。自分のこの場所への思い、私を受け入れてくれた仲間への気持ち、死んでしまった者との時間……。ちゃんと整理してから日本へ戻るべきだったんだ。整理をしてないから、ここに大事な何かを置いたまんま日本に行ってしまったような、もうひとりの自分が、取り残されてここで生き続けていたんだ。そうした思いが投影されていたのが、自分に一番近かったチーフだったんだ。
自衛隊に居ては日本を守れないと思って退職した。退職の時は、恐ろしかった。42歳にして無収入。年収1000万以上あったものがゼロになる。半分になるとか三分の一に減るとか中途半端なものではなく。ゼロになるのだ。全くの無収入になる。口で言うのは簡単だが、もの凄く恐ろしかった。手が震えるほど恐ろしかった。馬鹿げてる? 土台無理?、「初志貫徹」、「チャレンジ」、言葉としては格好がいいけれど、そんなこと若い奴のやることだろ・・・・・・? たくさんの葛藤があった。しかし、ミンダナオ島で何をすればいいのかは、判っていた。だから、毎日毎日訓練をした。水中格闘も知った。コンバットシューティングとは何か、刃物はどう使うのか、詳しくは語れないが、人に撃たれたし、撃った。何より、技術云々ではなく、戦うとは一体どういうことなのかを体感した。毎日何をすべきなのかが判っていて、その成果を体感できた。
一方、日本を守るより作らなきゃならないと思って日本に戻る時には、恐怖も躊躇もなかったが、一体何をどうしたらいいのか、皆目見当がつかなかった。毎日毎日、何をしたらいいのかが判らなかった。当然成果なんか体感できるわけがない。「他人が作った憲法を守っている以上、戦後は始まらない」。心の底からそう思うけれど、「それを正すって俺の仕事?」とも思い「俺の生い立ち、育ち、経験、知識、技量どれ一つとったって、俺の仕事じゃないだろう?」そうやって自分を慰めている時間の方が、どうすべきかを考える時間より長かった。“憲法を変えない限り戦後は始まらない”なんて気づかずに居たかったとさえ思った。そんな時に、自分の心にダメ押しをするように尖閣諸島漁船衝突事件が起きた。いたずらに過ごしていた時間に、けりをつけろと言わんばかりに……。
ここを去る時に、覚悟しなければならなかったことは、自衛隊を退職して、ここに来ることより、更に厳しいことを、また、始めようとしているということだった。46歳にして、どうしたらいいのか皆目見当がつかない事を、ゼロから始めようとしているという自覚だった。 (終わり)


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