元海上自衛官 伊藤祐靖

青鬼

「待て」
「はい」
「幹部候補生学校例規類集を持って来い」
「持ってきました」
「○○ページを開け」
これは、江田島の海上自衛隊幹部候補生学校の中で毎日繰り返される光景である。

一般の大学を出てきた者に規則なるものを強く認識して勤務させるための方策であり、何をするにも規則が存在し、『なぜ○○をしなければいけないのか』という疑問を解決してくれるものは、どこかにある規則であり、それにさえ従っていればいいという軍人としての究極の勘違いを作る。つまり、扱いやすい役人を作りあげる江田島伝統の教育システムである。私は、これが先の大戦における敗因の一つであると考えている。

それにしても、まず驚かされるのは「赤鬼」「青鬼」と呼ばれる、候補生より4期先輩の幹部教官の記憶力である。というのも、厚さ10センチはあろうかと思われるその例規類集全部を憶えているようなのだ。彼らの任務の大半は生活指導という名のもとにその教育システムを実行することであり、その規則に反した候補生を見つけては制裁を加えていた。勿論体罰もあったが、体罰は最も喜ばしい制裁であり、とにかく時間のない生活を強いられている状態で一番困るのは、当然時間のかかるものである。その最たるものが“グラウンド○周走ってこい”というもので、時間はかかるは、汗はかくはでやっかいであった。なにせ、着ているものが白なので汗をかくとその後が大変なのだ。ちょっとでも汚れた服装をしていると、また制裁という負のスパイラルから抜けられなくなる。

生まれつき私は、規則というものに従うと何となく敗北感を感じるタイプで、このような学校に最も向いてない人間である。まして父親に幼少期から「規則に従うか従わないかは自分の自由であり、やるべきだと思うことは死刑になってでもしろ」と体に擦り込まれていたので尚更である。「こうやって役人として飼い慣らされていくのか・・・・・」と、江田島教育の一端が見えてくると堪えられない嫌悪感と失望感を覚えた。しかし、江田島は信じられないくらいの幸運の果てに辿り着いたところであり、そうやすやすと愛想を尽かして去るわけにもいかなかった。そしてなにより江田島の100年以上の歴史ある赤レンガの中で生活していると、先の大戦で散華された先輩達の想いが私の心の奥を刺激し、ここにいるべきなんだと思わせてもいた。ともあれ、日々その役人作成プログラムは繰り返され、知らず知らずのうちに私自身も飼い慣らされてはいないかが心配で堪らなかった。

「そうだ!赤鬼・青鬼の大好きな例規類集を使って、あいつらを追い込んでやろう」と、あるとき思いついた。そして、あの鬼達が読み落としていそうな規則はないかと厚さ10センチもある例規類集を丁寧に丁寧に読み始めた。しかし、そんな都合のいい規則はあるわけもなく、第一に活字を読んでそこに書いてあることを理解する作業なんて小学校以来したことがないので、ふと気がつくと目が活字の上を通過しているだけで、頭は書いてあることを理解しようとする作業を放棄していることも多くあったし、独特の言い回しや、規則の理合いみたいなものが見えていないので、すぐに文章の意味を理解することは難しかった。

その10センチの本を読み返すこと5回目位の時に、鬼達が勘違いしているかもしれない規則をついに見つけた。それは「自習時間に関する規則」の中の「音響機器の使用について」という項目にあった。“音響機器の使用に関しては自習時間中の使用を禁止する。(ただし、外国語の習得を目的としている場合は可とする)”と書いてあった。
「これだこれだ !」
ウォークマンで英語のアップテンポの音楽でも自習時間中に聴いていれば、あの鬼どもは“引っかかる”と思った。さっそくその夜に、同期からウォークマンを借りて、自習時間を待った。

自習をしているふりをしていると、予想どおり、青鬼がいきなり私の頭を後ろから殴りつけた。
「何をするんですか」
「幹部候補生学校例規類集を持ってこい」
「はい」
自習室の棚にある、その本を持ってきて予め覚えていた○○ページを開いて、青鬼に渡した。
「○○ページでしょうか ?」
青鬼の自信に満ちた表情が、みるみる「まずい」という表情に変わっていった。
“こいつは、罠にはまった。”と、有頂天の私は、ごちゃごちゃ規則を持ち出すことなどしなかった。
「なぜ私の頭をたたいたんでしょうか?」わざと青鬼に私の頭を殴りつけたことを正当化するチャンスを与えた。何か言ったら、青鬼を逃げようのない“蟻地獄”に引きずり込もうと思っていた。
すると「音楽を聴いているのかと勘違いし、指導のつもりで頭をたたいた。申し訳なかった。謝る」
と言われた。鬼が候補生に謝っている??? 俺はついに青鬼に謝らせるなんてことができちゃったのか……!???

ついにやった、と喜びそうな話だ。しかし、それも束の間、次の瞬間には謝っている青鬼をみて、それから、謝られている自分の表情を想像してしまい、どういうわけだか「俺は何て小さい人間なんだろう……」と急に情けない気持ちになった。正当化しようとする青鬼を、今からその大好きな規則とやらで追いつめてやろうと張り切っていたのに拍子抜けした、ってこともあるのだろうけれど、“ぶざま”と見られるかもしれないのに、何も繕わず、あっさり、ただ率直に詫びた青鬼に感服した。

その時“この海軍(海上自衛隊)というものに、とにかくのめりこんでみよう”と思った。“役人根性注入プログラムに巻き込まれる気はないけども、やっぱり俺はここが居るべきところなんだ”と思えた。
あの青鬼がいなければ、江田島キチガイ部落を中途離脱していたことだろう。

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