元海上自衛官 伊藤祐靖

本気(100回やれば100回負ける)

 自衛隊生活20年で肉体的に一番きつかったのは、幹部候補生の時であった。同期生は、防衛大学校、もしくは普通の大学を卒業した人であり、真剣にスポーツをしていたとしても、それが金銭の獲得に直接結びつくものだったわけではない。一方私にとってその身体能力は、たった一つ天から授かった才覚であり、生きていくために最大活用しなければならない大切なものであった。こと運動に関しては、それが技術的なものであれ、体力的なものであれ、そもそも去年まで日体大の特待生だった者と、そうでない同期生とを比べること自体が変な話であった。しかし、その時が普通の人相手に肉体的に一番きつかったのである。

候補生学校に着校して間もない頃は、よく同期生から「へ〜、日体大から自衛隊じゃ、完全な体育会系ですね〜」って言われて、「体育会系って運動部に入ってた人のことで、“がさつ”で“野暮ったい”という意味なんだろうな〜」「でも、だったら初対面の人に言わないだろうし、何かちょっと違うのかな〜」と、どうも完全に理解しきれない単語であった。理科系、文科系という言葉も未だによく理解できていないが、それに匹敵するくらい体育会系という言葉もわかっていない。

なぜ、肉体的にきつかったのかというと、答えは非常に簡単で、走る、泳ぐ、筋力トレーニング等の実施回数が途中で増えるからである。「5000mを全力で走れ」という指示の後に「まだまだ〜、あと1000m」。腕立て伏せだったら、「30回」と指示して、やり終わってから「あと10回やれ」ということが発生するからである。自衛隊に籍を置いたことのある方であれば、すぐにピンと来る話である。しかし、それまで私が属していた組織においては、そのようなことは絶対になかった。それは、誰もが腕立て伏せ30回というのであれば、その30回で全力を出し切ろうとするからである。練習とはそういうものである。どうしても残してしまう余力を何とかゼロにしようと全員が努力している。選手は、常に、腕立て伏せなら「あと、1ミリ下げられたかもしれない、完全に自分を追い込むことは今日もできなかった」、5000mなら「あと、1/100秒早く走れたかもしれない、今日も1/100秒妥協したんじゃないのか」ということを考えている。「余力」を限りなくゼロに近づけられるかが選手としての価値を大きく分けるものであり、努力の殆どはそこに傾注されている。だからこそ最後はそこで勝負がつく。「余力」の単位が回数なのであれば、ゼロに近づけようとしていないのと同じである。近づけようとしていないのであれば、それはもはや勝負の場に出てくる価値さえないのである。

ともあれ、しばらくすると、この自衛隊特有のシステムに気付いてきた。誰も余力を何とかゼロにしようとなんかしていない。とにかく早く時間が終わってくれればいいと思っている。余力をゼロにどれだけ近づけられたのかで勝負が決まるのに、余力を残して終わってしまっても何の後悔も罪悪感も恐怖感もない。「あ〜、終わった。お疲れ様でした」。大して疲れてないだろう……。

結果に結びつかない時間を過ごしたことが敗北にまっすぐ繋がっているとは全く感じていない。そんなことより、いかに頑張ったように見せられたか、仲間に対しても、なんと自分に対してまでも演技が入っている。そんなことして何になるんだ? 能力の向上を目的としない練習、みんなで「俺達頑張ったね」っていう事が目的の練習なんかいくらしても絶対に結果は出ない。第一どれだけ頑張ったかということは、どこまで限界に追い込んだのかということである。しかし、余力を絶対にゼロにすることはできない。だからそれは、常に自分を悩まし、決して勝利することができないものである。なのに何でそれを褒め言葉にすることができるんだ? なんでそんな意味のないことをやっていられるんだ、やらされる方もやらせる方も一緒に本気のふりをしている。こんな組織は絶対に戦えない。戦ったって100回やれば100回負ける。本気とはどういうことかを、組織ぐるみで理解していない。

その時から10年間このフラストレーションは消えることはなかった。しかし、海上自衛隊内における特殊部隊の創設に関わり始めた瞬間に、このフラストレーションは消えた。

しかし、更にその10年後、特別警備隊から他の部隊への転属命令の内示を受けた。もう、あのフラストレーションに堪える自信もその必要性も感じることはできず、何の未練もなく退職を決意した。

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