元海上自衛官 伊藤祐靖

「お世話になりました。行ってきます」北朝鮮工作母船追跡事案(第6話)

保安庁の船は反転し、帰って行った。その船尾灯はあっという間に見えなくなった。私と艦長は、途方に暮れて見つめ合っていた。大海原のど真ん中に艦長と私二人っきりで取り残された気分になった。
「艦長、二人っきりになっちゃいましたけど……」(この場合は、艦長と私ではなく、不審船と「みょうこう」を指す)
「ど〜しましょ〜?」
これは、指揮官に参謀が絶対に言ってはいけない“せりふ”である。どうするかを考えて、意見具申する為にいる者が、「どうしますか?」はあり得ない。しかし、二人で途方に暮れていたその時、私は、禁句を口にしてしまった。
「保安庁と一緒になって帰るわけないだろう」
「ですよね〜、現在の位置関係を維持します」(どこまで行くんだ? 日本海は狭い、ボヤボヤしてると対岸に着いちまう)
「そうだよ、そうしろ」
断言したものの、艦長は、ちょっと困惑している顔だった。私も何がどうなっていくのかわからなかったが、少なくとも今はホットコーナーではなく自分で操艦する必要はないと考えた。であれば、ペーパーワークを少しでも片付けてしまいたい。
再び私室に戻ったところで艦内マイクが入った。
「航空機が着艦する。関係員配置につけ」(お〜後発後期(出港に間に合わないこと)した副長達がヘリコプターで送られてくる)
再び艦橋に上がり、針路・速力がヘリコプターの着艦に関し問題がないことを確認しながら、飛行甲板に着艦しようとしているヘリコプターをモニターテレビで見ていた。ヘリコプターが狭い飛行甲板に着艦し、チェーンで固定されると副長を先頭に数名がバツの悪そうな顔で降りてきた……。
しばらくして「航空機発着艦関係員別れ」の号令がかかった頃に副長が艦橋の艦長に帰艦の申告に来た。艦長は、船務長に罵詈雑言を浴びせ過ぎて、本人に投げかける残弾がなかったらしく、普通の会話が成立していた。本土についさっきまで居た副長が持っている情報が極めて貴重であったのも、その一因である。衛星通信が当たり前のようにある現代でも、現場を混乱させないように錯綜する情報を何とか集結させてから発信しようとするせいか、上級指揮官の意図というのは適時には割と流れてこないものである。その思想は正しいが、さじ加減が非常に難しい。多少の混乱は覚悟で不確定でもいいから情報を流して欲しい場合もあるし、不確定な情報ならばいらない、という場合もあるからである。
夕飯後艦内を回ってみた。会う乗員会う乗員が「航海長、どうなんですか?」「どうなるんですか?」と聞いてくるが「知らね〜よ」「わかんね〜よ」としか答えようがなかった。
科員食堂(下士官用の食堂)にある自動販売機でコーラを買おうと向かっていると突然艦内マイクが副長自身の声で流れてきた。
「達する、現在政府内で“海上警備行動”の発令に関する議論がされている。発令されれば、本艦は『警告射撃』及び『立入検査』を実施する可能性がある」
(海上警備行動をかける? んなわけね〜だろ)私は何の根拠もなく勝手に思い込んだ。そして、そのまま知らん顔でコーラを飲んでいた。戦闘艦艇においては、出港したら靴を脱ぐことは許されず、寝る時もズボンは履いたままである。しかし、ルールに従うと自分が負けたような気分になってしまう私は、その辺のルールはお構いなしに、その時、裸足、サンダル、Tシャツだった。
「航海長、本当に海上警備行動かかるんすか?」
「かかるわけね〜じゃねか、日本の腰抜け政治家が“初もん”に挑むかよ。かけるべきか、かけないべきかを考えてんじゃなくて、かけられない理由を並べた官僚の紙読んでよ、“こうせざるをえなかった”っつう理由をグダグダ考えてんだよ」
「そうすか〜」
「当たりめ〜じゃね〜か」

「カーン、カーン、カーン、カーン」
よりにもよってその時、アラームが鳴った。(アラームとは、総員を戦闘配置に付けさせる為のものであり、訓練においては航海長がそのスイッチをならす)
「誰だ、いたずらしてんのは!?」訓練においては私がスイッチを入れるので、咄嗟にそう思ってしまった。
「海上警備行動が発令された。総員戦闘配置に付け。繰り返す。海上警備行動が発令された。総員戦闘配置に付け」「射撃関係員集合CIC、立入検査関係員集合食堂」

艦内は、蜂の巣を突っついたどころではなくなった。入浴中の者、トイレにいる者、食事中の者が、それぞれ、泡だらけのまま、ズボンを引き上げながら、食べかけのお盆を吹っ飛ばして自分の戦闘配置に向かって走っていく。ぼやぼやしてると、非常閉鎖といって艦内のすべてのハッチが閉鎖されるため、移動ができなくなってしまう。私も同様である。艦橋に行かなければならない。私室に戻って戦闘服装を整えている暇なんかない。そのまま、20m以上の高低差がある艦橋までラッタル(階段)を駆け上がった。艦橋は真っ暗だ。誰も私が、裸足、サンダル、Tシャツだなんて見えやしない。足音だけ気を付ければ大丈夫だ。それより、今はクラス(赤レンガ同期生)の砲術長が航海指揮官として立直中だ、早く行って俺が替わってやらないと……。今から主砲を撃つっていうのに……。
やっと艦橋にたどり着いた私は、サンダルのペタペタ音がしないように気を付けながら航海指揮官として立直している砲術長に近づいた。

本来のあるべき姿は、艦がおかれている状況を十分理解した上で、砲術長に対し、
「砲術長、航海長交代用意よし」
「了解、航海指揮官替わります。最大戦速、針路○○○」
「替わりました。航海長、最大戦速、針路○○○」と下令中の速力、針路を復唱しながら交代しなければならない。しかし、この時は、
「つどむ(“つとむ”という砲術長の下の名前、しかも茨城弁でなまっている)機械、舵貰う。はよ〜行け」
「願います」
めちゃくちゃな航海指揮官の交代であった。砲術長はクラスであり、しかも同郷であった。なまっていた方が通じる。
「艦内各部戦闘配置よし、非常閉鎖とした」との報告を受けた。
「了解、所要時間は?」
「2分58秒です」
「了解」
これが、本番である。訓練では3分を切ったことはなかったが、本番では切った。しかも、私が危うく足を引っ張るところだった。というより、実は“ずる”をしている。私だけサンダルを履いている。
「艦長、艦内各部戦闘配置につきました、非常閉鎖としました」
「うん」
真っ暗な艦橋の中のわずかな明かりに映し出された艦長は、少し下を向きながら引きしまった頬を見せていた。今まで見たことのない顔だった。重圧がかかってる。この人に重圧がかかっている。その重圧をこの人は一人で受けている。これが指揮官の顔だ。どこかに物見遊山の気がある俺なんかとは全然違う。この人の命令ですべてが動く、だからこそ、すべての責任はこの人しかとれない。
「艦長、今まですいませんでした。嘘ついたり、適当なこと言ったり……」
「実は、今もなんです。すいません」
心の中で謝った。そして、同時に思っていた。
「でも、今回だけは、何が何でもこの人を全身全霊で補佐しよう」
生まれて初めて“生身の人間に”忠義を誓った瞬間だった。

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