元海上自衛官 伊藤祐靖

女々しいことをするくらいなら死を選びなさい

 日体大を卒業した私は、海上自衛隊へ入隊するまでの数週間、居場所がなくて実家に居た。横須賀教育隊へ向けて出発する朝、遺書と遺髪を父に渡して「22年間お世話になりました。行って参ります」と言った。当時の私は、世の中とはそういうものだとなぜか考えており、よって、深く考えた末の行動でも、覚悟をした上の発言でもなかった。だからこそ、その時の父親の反応には少なからず驚きがあった。父親は短く「はい」と答えた後に、「ご苦労なことです」と付け加えた。いきなり聞く他人行儀なその言葉とその態度から父親との間に突然距離を感じた。「何? ご苦労って、それほどのことなのか?」。

その後長い時間をかけて「ご苦労なことです」の意味がわかってくるのだが、簡単に言うと、終戦時に18歳だった父親とだいぶ薄らいだGHQ教育で育った私とでは、親子であってもこれくらい公務に就くという意義についての感覚が違っていたのである。
その時の私はといえば、それを「前時代的な考え方」か「美しき戦前日本の考え方」か、どうとらえるべきか、などと悩むには至らず、違和感を覚えただけでそれ以上を考えることもなかった。一方その場に居た昭和16年生まれでGHQ教育真っ只中で育った母親は、違和感を通り越し「何かいけない雰囲気になってきた、かき消さないと」という感覚だったのか、「お父さんと握手をしなさいよ」と更に時代のギャップを広げることを言った。父親は「わしには、毛唐のような習慣はない」と、また更に時代のギャップを広げることを言って下がってしまった。すると、それを見ていた祖母が今度は自分の番だという雰囲気で現れ「女々しいことをするくらいなら、死を選びなさい」とまたもや、そのギャップを広げた。真っ先に頭に浮かんだのは「女々しい? 女(おんな)・女(おんな)? 自分だって女だろ、使うか、その単語?」だったが、そんなことは言えなかった。祖母は明治に愛知県渥美半島の田原という漁村で生まれ育ち、満州鉄道に勤める祖父と結婚、満州で終戦を迎えている。その時当然、祖父は現場におらず、祖母は一人、3男2女を連れて引き揚げ、その後も子供達を一人で育てた。それだけに決して優しい人ではなく、その気丈さゆえか、職場、近所、親戚などとの人付き合いが苦手であった。だからか、トラブルメーカーとしての素養を十分に持っていた私の事を異常なほど可愛がった。しかしその祖母の「女々しいことをするくらいなら、死を選びなさい」というこのときの発言は、その気丈さからくる好戦的なものではなく、ごく当たり前に子や孫に願うはずの「長く元気に生きていて欲しいという私情を諦める」というむしろ消極的な考えであった。それはしかし、「その職を選んだ以上、長く生きることより、どう生きるかを優先しなさい」と、私に要求するものでもあった。そしてそれにはえもいわれぬ凄みが感じられた。祖母も父親と同じ考えで「公務」に就く、ということを非常に真摯に受け止めていて、そのためになら私情は押し殺すものだ、という信念だった。だからこそ「そのためになら孫の死をも受け入れる」という強い意思を感じた。それを言い終えた祖母の引き締まった目つきと口元には、自分の一番辛いことを自分の意思で貫こうとする凛とした美しい強さがあった。 
否定的に考える人に言わせれば、たかだか自衛隊に行くだけの話じゃないか、ということかもしれない。時代錯誤かもしれない。ただ、その時代錯誤の二人が信じて疑わない、「私情とは、公務のためになら諦めるもの」という、消極的で明快なその信念には、積極的に私を納得させる強さがあった。
(昭和62年3月27日)

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