元海上自衛官 伊藤祐靖

「受験勉強」

  人生で最大の絶望にいた私は突然思いついた。「幹部は違うだろう。もうどこにも行くところはない、幹部になるしかない」。そう考えると、目標ができたからか、少しは気が楽になってきた。すぐに担当の班長に、幹部候補生の試験を受けたい、と話をした。生まれて初めて向学心が湧いた、というか、机に座って勉強することにワクワクした。上陸が許可される日曜日を待ち、セーラー服を着た私は、横須賀の街へ「海上自衛隊幹部候補生学校過去5年間試験問題集」を買いに走った。教育隊に戻り、また作業服に着替え、自習室でさっそく勉強をしようと張り切ってその問題集を開いた。その1ページ目に「文系の学部を卒業した方は○ページから、理系の学部を卒業した方は□ページからの問題を解いて下さい」と注意書きがあった。はて、俺は、いったいどっちなんだろう?
そもそも、理系と文系ってのは算数が得意な人、国語が得意な人、くらいの感覚しかなかったのが、卒業した学部によってちゃんと決まるということを、その時初めて知った。第一、日体大の何学部を卒業したことになっているのかもよくわかっていない私は、とにかく、文系でも理系でも解けそうな方をやってみよう、と、まず理系の問題を見て、次に文系の問題を見た。両方見終わった私は、問題集を閉じて途方に暮れた。両方ともさっぱり判らない。頑張るとか努力とかではどうにもならないほど、かけ離れたものを感じた。考えてみれば、私は中学の後半より教科書自体を開いたことがない。高校にいたっては教科書を買ってすらいない。大学は、グラウンドと合宿所以外行ったことがない。一方この試験といえば、中学から高校受験をして高校でも一生懸命勉強して、大学受験をして、大学でも勉強して卒業した人達を振り落とすためのものである。私なんかが見てもさっぱりわからないのは当然と言えば当然である。ここで簡単に途方に暮れた、などと書いてはいるが、ようやく見えた「たった一つの希望」が消えた瞬間だった。しかし、その時私は22歳。受験資格は28歳まで、と書いてある。ということは、あと6年もある、ともいえる。が、6年の間にこの問題が解けるようにならなければならないのだ。それしか方法はない、中学3年生からやり直すしか方法はないのだ。と、わかったところで、作業服をまたセーラー服に着替え、街に出て行き、中3の数学、英語等々全部で5冊位本を買って戻った。わずかな記憶を辿りながら生れて初めて真剣に勉強した。中3からのやり直しなので、中学の1年間、高校の3年間、大学の4年間、合計8年間を追いかけなければならない。1日に机に向かえる時間は夜の自習時間の2時間、それに土曜の午後と日曜を足しても週に30時間にも満たない。「判らない」「進まない」「投げ出したい」「投げ出せない」が延々と続く中、時々「過去5年間試験問題集」を開いて、いったいこの問題が解けるようになるのに何年かかるんだろう、仕事をしながら6年で8年間を追いかけるなんて無理じゃないか、6年やって追いつかず、無駄だったと判るくらいなら、今辞めた方がよっぽどいいだろうとも思ったりした。しかし、他への就職の道を切って、退路を遮断してしまっている私は、何をどう理屈をこねようと、この問題を解けるようになるしか道はなく。解けるようになるためには、やはり中3からやり直すしかなかった。
あっという間に、2カ月が過ぎた。
「伊藤練習員」
「はい」
「来週の月曜が幹部候補生学校の1次試験だからな」
しまった。そう言われて初めて、今年試験を受けると言ったままにしていたことに気付いた。その時の私の愛読書は中3の問題集、要するに23歳にしてまだ、中学生の勉強をしていた。しかし、「まあ、いいか、どんなものなのか見てみよう」という程度の気持ちで、試験を受けに行くことにした。

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