荒谷 卓
三島由紀夫・森田必勝両烈士追悼野分祭記念講演録「神道と武士道の現代的意義」
「楯の会」市ヶ谷台決起、そして三島由紀夫・森田必勝両烈士の自決より四十年。両烈士の御霊を祭る野分祭は今年も無事行われた。今年の記念講演には陸自特殊作戦群の初代群長であり、明治神宮至誠館館長を務める荒谷卓先生をお迎えした。講演では、三島烈士が異を唱えた「戦後の依存社会」から「尊厳ある日本人」はいかに脱し、国を蘇らせるのかを論じて頂いた。
三島由紀夫の「檄」が呼びかけるもの
本日は烈士二柱の御霊の御前で、玉串並びに祓太刀奉納の栄を頂き、誠に感激の至りであります。さらに、ご列席の有志大兄の御前にて私ごとき若造がお話しする機会を頂き恐悦至極に存じます。
昨今の情勢を考える上で、先程、檄文を改めて拝聴致しまして、痛憤切歯のあまり論を遊ぶ心境になく、本日の演題『神道と武士道の現代的な意義』につきましては、お配りした資料『日本民族のナショナリズム』をご笑覧いただき、草莽の小臣とはいえ、微衷から発するところの存念をお聞き願いたく存じます。
四十年前、市ヶ谷台の自衛隊員に対し、先程の「檄」が発せられました。これに対し、三十二普通科連隊の若い下士官たちは、三島先生の声を聞こうと務めましたが、残念な事に幹部学校の学生等―即ち当時の中高級幹部が野次を飛ばして聞き取れず、真心の共振は起こらないまま自決を迎えました。
自刃直後に、私の師である葦津珍彦先生が次の様な指摘をしています。
『元々、マッカーサーのポツダム勅令によって建設された自衛隊は、米軍の補完として誕生した現憲法以降の存在で、憲法以前の皇軍は全面的に解体されていまだ再建されていない状態では無理もなかった。
現憲法に対する三島由紀夫の憤りが、最も深く大きな共感の波紋を投げかけているのは、経済繁栄で豚の様に肥えた経済人でもなければ、社会的地位の高い老年者でもない。敗戦屈辱後の日本に生まれ、しかも栄光ある伝統の復活を求めてやまない若い青年なのだ。日本民族の沈黙せる土着大衆なのだ」―と指摘しています。まさに「然り」であります。
仮に先程の檄文が、自衛隊に対してではなく一般の民衆に対して投げかけられればどうなるか―「『日本を否定する憲法を守れ』という屈辱的な法的強制に対する尊厳ある日本人の声は聞こえてこない。かくなる上は尊厳ある日本人自らの力で国の理論の歪みを正す他に道はないと分かっているのに、日本人は声を奪はれたカナリヤのように黙ったままだ」
「憲法法規があるから何もできんと国民は言う。しかし、国民の希求する憲法改正は悲しいかな、憲法に基く国会審議などではできぬのだ。この上、政治家のうれしがらせに乗り、より深い自己欺瞞と自己冒涜の道を歩まんとする日本人の魂は腐ったのか。武士の魂はどこに行ったのだ。魂の死んだ巨大な『株式会社』となってどこへ行こうとするのか」。
しかし一方で、三島先生が何故自衛隊に呼びかけたのかを考えますと、私は自衛隊が戦後唯一の武力集団であったからだと思います。仮に「土着の市民」が大いなる志を持ち、詭弁を有する政治家に憲法改正を訴えても、それが国会の手続きを経て改正を目指すという期待感で終始するのであれば、永久に戦後憲法の改正は不可能でしょう。
三島先生は、この日本の戦後体制を変えるのは、実力を以ってするしかないと思ったのだと思います。
歴史を断絶させた戦後憲法の「詔勅排除」
そもそも我が国の現在の憲法前文には、「これ(日本国憲法の基本原理)に反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する」とあります。即ち、いかなる改正手続きをとっても、この基本理念を変える事は相成らぬと前文で明記されています。
特に重大な問題は、この憲法前文にて「憲法の原理に反する一切の詔勅を排除する」と書いてある事でしょう。我が国体で、天皇陛下の詔勅を排除するという理論があるはずはない。天皇陛下の詔勅とは天照大神の神勅を起源として、歴代天皇、皇祖皇宗の大御心として、天皇陛下より賜るものです。
それが憲法によって封印されてしまうというのは、我が国の歴史を遡ってもありえない行為です。かの足利尊氏でさえも天皇陛下の詔勅の権威は侵さなかったし、幕末に安政の大獄を引き起こした井伊直弼も、孝明天皇の勅状を畏れていました。即ち日本の歴史上、天皇陛下の詔勅は絶対的権威を常に有していたはずでしたが、戦後体制では憲法の下に置かれています。
さらに現憲法九十六条においては、憲法改正の手続きが定められていますが、この手続きを経て承認を得たとしても、二項において、現在の憲法と一体として、つまり、同じ思想に留まるという条件があります。
また、九十七条ではこの憲法が保障する基本的人権は、現在将来の国民に対し、侵す事の出来ない永久の権利として信託されたものとされ、九十八条第一項で再び「この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない」と明記されています。
現憲法を考える上で、井上孚麿先生は「憲法改正の限界」を提唱しています。即ち、憲法には自ずと改正できる範囲と、改正してはならぬ範囲がある。つまり、憲法が本来持っている基本的な原理は変えられない。従って、大日本帝国憲法における第一条から第四条はいかなる事があっても改正の俎上に乗るものではない―と仰っています。
だから(帝国憲法を改正して作られた)現在の憲法は無効である―という論を展開していましたが、ただ、現憲法は巧妙にもこの「限界論」を文中に明記しており、日本人が本来持たなかった社会思想を「変えてはいけない」と規定しているのです。
しかも、占領体制下において極めて狡猾、巧妙になされたと思わざるを得ないのは、現憲法の公布にあたり、昭和天皇陛下の勅語を戴いている事でしょう。その後、第九十一、九十二帝国議会下院(現在の衆議院)において現憲法が施行されるための必要な関連法案が議決されましたが、これが「最後の勅語」となります。これ以降、勅語は発せられておらず「お言葉」とされています。
これは実に巧妙な仕掛けだと私は思います。忠誠なる臣下であれば、昭和天皇が発した勅語に対しては、絶対的権威を生み出さざるを得ません。しかもこの勅語を最後に、現憲法では永久的に勅語を封印したのです。現にそれ以降、勅語が出された事はありません。
従って、今のままでは永久に「人類の普遍的原理」を正す詔勅は発せられないのです。しかし、この「人類の普遍的原理」という現憲法の思想は、我が国の神話と相反する思想である以上、日本人としては受け入れる訳にはいかないのです。
グローバル化した世界をリードすべき日本神話の精神
戦後憲法を貫く自然権の概念は、唯一絶対の神が造形したという世界観のユダヤ神話に端を発します。従って個々の人間は神との関係によって存在し、隣り合う他者は、神との関係において共通する以外に何の関係も有しない存在です。
この社会構図を受け継いだのが自然権の発想であり、個々の人間は神から与えられた絶対的な権利を有する。従って他者―たとえ家族、親子であろうとも―とは全く独立した権利を持つ存在とされます。
欧米の世界においては、この近代思想の背景にはキリスト教の道徳や倫理観が横たわっていますから、仮に人権思想という社会構造ができても、キリスト教的道徳観において社会は辛うじて維持される可能性があります。しかし、その様な文化的背景のない日本において、西欧的な人権思想が導入されればどうなるのか。「神」を除いた絶対的権利を有する個人が存在するだけです。
したがって、最近多発している親殺し、子殺しといった凄惨な事件は、この自然権的な発想で見れば、必然とも言えるでしょう。
一方、我が国の神話では、神代から現在に至るまでムスビ(産霊)により連綿と繋がっております。宇宙の中心を天御中主神(アメノミナカノヌシ)とよび、膨張と収縮の運動である高皇産霊神(タカムスビノカミ)、神皇産霊神(カミムスビノカミ)によって万物が生まれてきます。つまり、神が神を生み、その神々から我々は生まれた。これはユダヤ、キリスト教の「神の子」とは意味が違います。
本当に我々は神の子孫であるという考えであり、全てが(自然の法理に従い)神々から生まれ、そして将来へと永遠に続くという考えであるからこそ、全ての人間は大きな意味で一つの「家族」であるという思想になるのです。この精神が日本社会の根本であり、この社会観こそ、グローバル化した社会において最も希求される思想だと思います。
今、混迷の状態にあるアフリカや、未だに戦火止まないイラク等で一目瞭然であると言えます。それぞれの民族が持つそれぞれの神を全て否定させ、自らの理論に服従させるという試みはうまく行っていません。誇り高い民族であればある程、必死の抵抗を繰り返すのは当然です。
私は自衛隊時代に、イラクに部隊を派遣し、私も現地に行きました。そして現地で、日本の八百万神の精神がいかに有効かを確認してきました。即ち彼らが信仰する神を「産土の神」として尊敬し、また我々の神を「氏神」として彼らに伝え、お互い敬意を払う。これに何の矛盾もない訳です。私に言わせてもらえば、日本では、キリスト教の神社があり、イスラム教の神社があっても何の不思議でもありません。その様に神々が共存することで、人間も共存できます。
さらに言えば、自然も共に一体となって、天御中主神から生まれてきたと言えますから、環境問題も全てこの思想で解決されます。
だからこそ、今、日本神話の精神は世界中に発信される時期に来ていると言えるでしょう。残念ながら、それを一番理解していないのは日本人自身ではないでしょうか。私は良き日本国民である前に、良き日本人であるべきだと思います。
戦後の依存社会と「尊厳ある日本人」
良き日本人とはまさに神国の伝統を受け継ぐ日本人です。ならば日本人としての尊厳を持って、現在の憲法に対峙した時、その憲法が日本人の尊厳を辱めるものであれば、その憲法に従う行為は日本人としての尊厳を捨てるということになります。
日本人としての尊厳を捨ててまで憲法に従うか、それとも日本人としての尊厳を貫くか。己が尊厳ある日本人でありたいと思うならば憲法に従うという選択は許されないでしょう。
さらに、昨今の緊迫した情勢の中、日本はこのままでは激烈なる国際情勢の中で埋没する恐れが十分にあります。かかる情勢下においては、当たり前の事ですが、挙国一致の体制を構築しなければなりません。
しかし、今、我が国の情勢を見れば、どの党が勝利しようが、誰が選挙に勝とうが、国論が一致する気配は全くありません。これは、誰が見ても明らかでしょう。何故、この様な状況を目のあたりにしても、政治家や政党に期待し続けるのでしょうか? まさに危機的な時代であるからこそ、日本人は天皇陛下の元、心を一つにして団結する以外に解決の方策はないのです。
唯一、最近で嬉しいニュースがあるとすれば、かの海上保安官が国交大臣の指示を不当なものだと判断し、政府が隠そうとした映像を国民に公開し、事実を国民に知らせた事でしょう。これは、義挙とすればささやかな功績かもしれませんが、多くの国民がかかる行いに賛同を示した事実は大きな意義があります。
この動きがさらに加速すれば、本当に我が国の主権を守り、あるいは国民の生命を守るためには何が必要なのか―国民は認識する事になるでしょう。さらに、「人権」という発想は本当に人類にとって普遍的価値があるのか―との問題にも突き当たると思います。
私は、自らの真心に立ち返り、自らが正しいと思うことを人に頼らず実行する。―この考え方が重要だと思います。あまりにも長い間、我々は人に頼り過ぎました。
先程、戦後日本は米国に依存して来た―という指摘がありましたが、これは何も対米依存に限らず、すべからく、誰かに対する依存の連鎖が今の状況を生んでいると言えます。米国に依存ずる政府を批判しても、またその政府に「誰かがやってくれるのではないか」という依存をする。そして自ら立ち上がるという選択肢を、随分長い間放棄して来ました。
私は今般の件で、自衛官、警察官、保安官に対して、改めて自分達がいかなる信念でそれぞれの組織に入ったのかを思い出して欲しい―と伝えたいと思います。
自衛官は最初から自衛隊の隊員ではなく、元々、自らの命を犠牲にしても、国の独立、国家の主権を守る為に自衛官になるという選択をしたはずです。その様な思いで入隊した自衛官がいるはずです。
自衛官は、一旦入隊すれば、「命令に服従すべし」という軍隊の原則は守らなくてはなりません。しかし、これはあくまでも、その国が発する命令指示が我が国の独立主権を守る為に発せられる事を前提に、絶対的な服従を誓うのです。仮にその命令指示が我が国の独立主権を守るものとは一切関係ないものだとすれば、これは今一度、自衛官である前に、尊厳ある日本人として服従するかどうか判断するべきです。
それは警察官、保安官も然りであります。聞く所に寄れば、先般の北京オリンピックの直前に行なわれた長野での聖火リレーにおいて、「中国人は逮捕するな。ただし、リレーを妨害する日本人は逮捕しても良い」という指示が出たと言われています。この様な指示が、国民の生命、財産を守る警察官として正当な命令であると言えるのか。警察官の皆さんには今一度、警 察官になる前の尊厳ある日本人に立ち返り、政府の命令指示を吟味して頂く必要があると思います。
そして現在、尖閣では「いかなる人間も上陸させない」という指示が海上保安官に出されており、特に日本人に対しては相当厳しいものがあります。強行突破し尖閣に上陸しようとする中国人に対し、この指示がどれ程有効かは分かりませんが、少なくとも日本人に対しては相当厳密な措置を取るでしょう。これが本当に国家の命令指示として正しいものなのか。海上保安官も同じ様に、尊厳ある日本人として、よくよく考えるべき問題と言えます。
自衛官、警察官、保安官以外にも、先に葦津珍彦先生が「最も期待している」と言われた「土着の日本人」―本来の日本人の伝統ある精神を継承している「ものを言わざる日本人」にも言える事です。自分が尊厳ある日本人として、今何をなすべきか―現在、極めて重大な時期に差し掛かっていると言わざるを得ません。
現在の「天の岩戸」を開き日本の真姿を回復せよ
現在の日本の状況を日本神話に例えるならば、「天の岩戸」の時にあると言えます。即ち、天皇陛下が勅語を発する事を封印している「岩戸」を、手力男(たぢからお)の神に相通じる精神を持った誰かが開け放ち、再び世に光を差しこまなくてはなりません。その手力男の神になる人間が希求されています。
また、岩戸を開けようとした八百万の神々が取った方策は、禍の巣窟と化した政府に出来るはずはありません。日本人としての真心を、ただひたすらに大切なものとして守ってきた「尊厳ある日本人」こそが、かの神々と同じように天安河原に集い、天の岩戸を開ける方策を練る事になるでしょう。
私は自衛隊では特殊作戦という分野に居りました。一般的な軍事作戦と特殊作戦の違いは何かと申しますと、思考のプロセスにあると言えます。
一般的な軍隊の作戦では、いかなる作戦でも可能性を常に探求し、可能性が高くなければ、その作戦は計画の俎上には乗りません。しかし特殊作戦においては、やらなければならない目的をまず計画の俎上に乗せ、それをどうやって果たせるか―万難を排した上で望みます。
例え百回失敗しても、百一回目で成功する為に、例え千回失敗しても、千一回目で成功する為に行動する。まさに不撓不屈でその目的に邁進する。計画が成り立たない、あるいは可能性が見えない―だからやらないという発想には決してなりません。やらなければならない事をやり遂げるのが、特殊作戦です。
戦後、我々は長い時間、檻の中の自由に現を抜かし、餌を与えられた家畜のように過ごしすぎました。現代の日本人には、日本国憲法は不変であり、その体制を正す事はできない、日本の行く末についても自分では何もできないのではないか―という感が蔓延している様に思えます。しかし、今一度、やらなければならない事をやるという精神に立ち返り、日本人としての本来の自分の仕事を見つける。それが極めて大事だと思います。
歴史、伝統を愛する日本人として、譲れない部分があります。その譲れない部分を他人に譲ってきたのでは、「尊厳を捨てた日本人」と同類になると言えます。そうなりたくなければ、是が非でも、何かしらの事をせざるを得ません。私はあらためて、神代から日本人が理想とした八紘一宇(家族的社会)の実現に向け姿勢を正すべきだと思います。日本人は何を以って「正義」とするのか、自分は何を以って生きようとするのか、そろそろ腹を決めていくべきだと思います。
勿論、三島先生がそうした様に、それは人に期待するものではなく、自らが行うものである。これが日本的、あるいは武士道的な精神ではないでしょうか。例えば桜田門外の変、また大久保利通を斬奸した事案を見て、「巨悪」を天誅として倒す―これも一つ。しかし、世が変わる為には、全国民である必要はないが有志国民が一体となって運動しなければ成功には至りません。
古来より、日本は君民一体の国柄でありました。しかし、世が乱れる時には「君民」の間にある「政府官僚」が、「姦吏国賊」と称されるような腐敗、機能不全に陥るわけであります。そしていつの世においても、この「姦吏国賊」を、上からも、民からも、即ち上下から「正す」力が働き、日本は常に蘇ってきました。
従って、現在天皇陛下と我々の間に立ち塞がる巨大な「岩」をまず民の力で押しのけて、然る後に陛下から勅語を頂き、国を蘇らせ、国体を明らかにする。こうした手続きを取らなくてはなりません。
具体的な話をこの様な場でする訳にはいきませんが、いずれにしても、頼るべきものでないものを頼り、あるいは自ら行動する事を惜しむ事はやめるべきでしょう。西郷南洲翁は「道を踏むには上手下手も無く、出来ざる人も無し(人の生き方にできるできないと言う事はない)」と仰っています。私はそういう生き方をしたいと思っています。
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