荒谷卓
月曜評論より
尖閣沖衝突事案に関する日本の対応を一人の人間にたとえてみよう。
落ち目の成金主が、何度も屋敷に入ってきては盗みを重ねる横柄な子供を注意したところ逆切れされて家財を破壊された。こんどばかりはと、この子供を捕まえて警察を呼んだところ、子供の親である景気のいいやくざな成金が怒鳴り込んできて、「子供を告訴すれば、商売を邪魔してやる」と脅かされた。おまけに家族まで人質に捕らえられてしまうと、この被害者の主は態度を急変し、相手の顔色を伺いながら警察に告訴を取り下げるといった。家族から「お父さん。何でそんなことするの。周りの人から馬鹿にされますよ。」と問われると、「ばか。相手はお得意さんだぞ、お金が大事だろ。」と答えた。こうして、盗人の親には「今後ともよろしくお願いします」とぺこぺこしている一方で、周りの人々には、あいつはひどい奴で何とかしてくれとお願いしまわっている。
臆病で侮蔑すべき人間を絵に描いたような話である。このような人間と、親しく付き合いたいと思うような人はおるまい。国と国の関係も然り。いかなる小国といえども、主権国家としての尊厳を失わない国は、全ての国と対等の立場にある。反対に、大国と称されていても、尊厳なき国家と対等の席に着くことはどの国も望むまい。そのようなことをすれば、自らも卑しい国家に貶めることになりかねないからだ。
中国との関係に配慮したというが、自ら主権を放棄するような国家と何ゆえまともに対話する必要があろうか。中国からすれば、日本に対しては要求を突きつけ、従わなければまた同じように威圧すればよい。そういう確証を得たことだろう。
このような惨めな日本の対応は、何も民主党政権だからというわけではない。国家主権も日本人の尊厳も全て「金」に替えてしまう政府の姿勢は、乱立するどの政党が政権をとっても変わることはない。
小泉内閣のときにも類似の事案が起きた。ある安全保障研究会で、政府の弱腰外交に対し、政府は毅然たる対応をするべきとの意見が出たとき、元防衛庁長官が大声で「そんなことをして中国が本気で怒ったらどうするんだ」とわめいていた姿を思い出す。
私は、拙書「戦う者達へ」の中で、「戦後の日本人が憲法精神に従って放棄したのは「戦争」ではなく、「戦うことも辞さない正義心を持った生き方」なのではないか。」と書いた。戦争は、放棄できない。なぜなら、相手国が決断すれば、戦争は必然的におきるのだから。
尊厳を放棄した人間は、欲に駆られた損得以外では戦わない。さらに、GHQの占領八年にわたって、「日本人はいかなることが起っても武器をとるべきではない」との教育をうけ、その後も、教育基本法に則り、同様の憲法精神を延々と教育されてきた日本人は、自分の命が係わることでさえも戦うことをしないように作り上げられた。戦後教育に順応した日本人は、いまや保護を受けないと存在できない絶滅危惧種である。
前原外相が、いくら米国の国務長官・国防長官から、「尖閣は日米安保の対象地域」という言葉を引き出しても、日本が自ら尖閣諸島領域を防衛するとの明確な意思と行動を起こさないことには何の意味も持たない。前原外相の態度は一見毅然としているのだが、国家として毅然とした態度をとるためには、政治の選択肢として軍事的対応を準備することが必要である。しかし、戦後の日本の政治からは「軍事」という手段が完全に欠落したままだ。
国際社会の主権という概念は、その権利を自ら行使し保全しようとする場合に限り有効となる。国民の人権は、国家という存在によって保障されるが、国際社会では国家主権を保障してくれるものはない。しかし、戦後日本は、その主権を自ら守ることを放棄した。
問題は、憲法9条だけではなく、国体を規定する憲法前文にある。日本国憲法前文は、日本の国体の考え方であった天皇大権を、権利の章典と同じように国民の権利へと革命的に転換し、しかもその国民の権利のうち最も基本となる「安全と生存権を平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」保持することを決意した。つまり、戦後の日本人は、自らの安全と生存を日本人自ら守ることを放棄し、米国や中国等諸外国の国民に委託したのである。それが、戦後日本の卑屈な外交姿勢に如実に表れている。
このまま、戦後憲法下に身を任せるというのであれば、いくら平和ボケした日本国民でも、どういう結末になるか今回の中国の態度で予想できるはずだ。沖縄の漁民は、当たり前のように中国側に捕まり、親中を約束すれば返される。中国がさらに自国の主権範囲を広く主張すれば、その範囲の日本人が全て同じようなことになる。当然資源も資産も奪われる。中国に滞在あるいは旅行している日本人はみんな、いつでも中国当局が身柄を拘束できる人質と同様である。
民族と国家の尊厳も国家の主権も、全て金に替える戦後日本政府。自国の歴史を伝統を汚い言葉で貶め、日本人としての尊厳を捨て、自分の財を稼ぎ地位を得ようとする戦後日本人。今回の尖閣沖衝突事案は、そうした戦後日本の醜さが露呈した一つの例にすぎない。このような没精神の者達に、日本人、日本国家の尊厳を説いても無駄であろう。
しかし、正統なる日本人としての尊厳を持つ者にとっては看過し難いことである。この事案の被害者は、尊厳を有する正統日本人であり、加害者は、悪意を持った中国人だけではなく、恥ずべき対応を決定し、あるいは、これを是とする日本国籍の者達である。したがって、我々尊厳を有する正統日本人は、この内なる敵と外にある敵との戦いをそれぞれ考えなくてはならない。
まずは、「日本人の怒り」をメディア上に大々的に流すことだ。今、やたら目に付く活字は「中国人の怒り」だけだ。静かだが強い「日本人の怒り」を内外の敵に知らしめよう。我慢に我慢を重ねた「日本人の怒り」が歴史的にどれほどのエネルギーを持ちえたか、中国人が一番よく知っているはずだ。力による恫喝には極端に弱い内なる敵に対しても「日本人の怒り」は有効に作用するだろう。
鈍感で節度のない政治家には、次期選挙において、今般のような事案が生起した場合、毅然とした対応を貫くことを公約した政党と立候補者にのみ投票する。と言ってもいいが、
平気でうそをつく没精神の政治家等に依存してはだめだ。日本を取り戻すための大掃除は、正統なる日本人が自らの力でなさなくてはならない。
さて、この内なる敵が、何ゆえのうのうと日本領土にのさばっているかといえば、戦後GHQによって構築された支配構造によるものだが、その正当性は日本国憲法に基づく。この支配構造は根深く、また、いまだに海外からの実力による関与もあり、そう簡単に崩せるものではないが、正当性の根拠たる日本国憲法がなくなれば、この支配構造は不法不当なるものとみなされる。したがって、あらゆる手段を講じて、この憲法を葬り去る、戦後体制の正当性を崩すことに努力を傾注しなければならぬ。
この憲法を葬り去るという意味は、全く根底から排除するということであって、部分的に条文を改正するというものではない。
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