伊藤祐靖
航空機からよく見えるように2枚目の国旗を崖上に設置し、07:50すべての作業を終了した。「1枚目の国旗もちゃんと張れてるはずだ!」と無理やり確信しながら、人生最高の景色、大海原に背を向けて下山を開始した。
下山を始めてまもなく、サイレンが聞こえてきた。何だ?? 何だ?? その直後「直ちに、上陸を止めて戻りなさい」と聞こえてきた。まさか、私に向けて言っているわけはないので、誰かが上陸を始めたんだと思った。ヘリの音、サイレンの音、スピーカーからの制止のアナ...ウンス。大騒ぎになっている。大捕り物が始まった。海上保安庁は、上陸を阻止しようとするだろう。県警のヘリがいたし、ヘリから警察官が降りて、海、陸にまたがった大鬼ごっこが始まってるに違いない。これは、見なきゃいけない。灯台から少し登ったところに水路付近を一望できる場所がある。あそこは、この世紀の大鬼ごっこの特等席だ。俺は、何て運がいいんだ……。そう思って300mの高低差を骨折覚悟で一気に駆け下りた。残っている体力と持っている技術のすべてを使って駆け下り始めた。10分もすると目にトイレットペーパーの芯を突っ込んだように視界が狭くなってきた。体力の限界は近いが、灯台も近い。大丈夫たどり着く。
待てよ、でも逃げてる方は、素人だからすぐ捕まっちまうだろう。みんな捕まったらそのまま、巡視船と警察のヘリで連行される。そうなったら、俺のことなんか忘れて帰ってしまう。ロビンソン・クルーソーか?? 全然、運なんかよくね~。運悪い。
灯台付近から少し上の見通しのいい場所にたどり着くと、さっきの騒ぎが止んでいる。静けさが戻っている。終わっちまったのか?? ロビンソンになったのか?? あれ? 巡視船はどこだ? ゴムボートも走ってない? ヘリは、どこに行ったんだ? がっくりうなだれて、トボトボと再び下山を開始した。重い足取りで灯台付近まで降りてくると、海に向かって旗を振っている人が居る。何で、海に向かって旗を振ってんだ?
鬼ごっこやってんなら、最後の最後に出てって、みんなと一緒に拘束されようと思ってたけど、捕物やってないなら、このまま第一桜丸に戻っちまおう。
巡視船は、2隻しかいないし。その2隻とも、1kmは離れてる。死角を辿って、水路にさえ入ってしまえば、あとは200mで船に戻れる。でも、問題は、ここ灯台から水路までの平坦で見通しの効く岩盤をどう突破するかだ。……そんなもん匍匐しかない。匍匐には幾つかの種類があるが、私は2種類しか使わない。1つは、アリゲーター。その名の通り「ワニ」のような格好で進んでいく。背筋などの運動量は大きいが、肘から肩までの長さの高低差があれば、身を隠しながら、高速かつ最小の痕跡(身体を引き擦らないため)で移動することができる。もう1つは、ワーム(虫)。これまた、その名の通り「尺取虫」のように進む。虫や蛙が鳴きやまないくらい、つまり動いているかどうかほとんどわからない速度で敵の至近距離を通るため、時速10m以上は出さない。
目測距離90m。5年ぶりに本気の匍匐前進を開始した。アリゲーター。だが、進み始めて、すぐに止まった。止まったどこじゃない。地面に突っ伏した。10mも進んでいない。400mを全力で走りきったときのように呼吸が激しい。泥も砂も干乾びた海草も一緒こたに吸い込むので、口の中がジャリジャリした。そんなもん、かまっちゃいられない。肺からは、血の匂いがする。まだ、あと80mもある。このままアリゲーターは、無理。下半身を引き擦る普通の匍匐に変更した。考えてみたら、誰に追われてるわけじゃなし、犬だっていない。痕跡も匂いも残したところで、どうってことない。
ところが、普通の匍匐も残り40mで止まった。半分を過ぎ、這っている状態で水路が見える距離まできたが、右、左と2歩進んでは、次の右を動かす気になるまで30秒は目をつぶり、口の中をジャリジャリさせながら激しく呼吸した。
残り、10m。酸っぱいものがコップ一杯分くらい湧き上がってきたので、口から出した。俺は、何をやってるんだろう。何で這ってるんだろう。俺は、亀なのかもしれない。そういや、子供の頃、親父は私のことを亀と呼んでいた。まだ歩けなかった頃、海に連れて行かれ、砂浜に放されると、這って、親父を振り切って一目散に海に向かっていったらしい。それが、生まれたばっかりの海亀に似ていたので、それ以降、親父だけが私を亀と呼んだ。変な時に変なことを思い出すもんだ。
つづく(まだ)
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