伊藤祐靖
5分もすると、海沿いあった灯台のからも遠くなり、僅かに足下を照らしていた星の明かりも鬱蒼と茂るクバの枝葉が遮断し、完全な漆黒となった。
4日前に上陸した香港の活動家達のうちの数名が密かに残っている可能性は多分にあった。彼らにすれば、我々の乗っていた漁船は、真夜中に沖合に現れ、まっすぐ島に向かって近づいてきたことになる。彼らの目的が何であったにせよ、警戒はしているはずで、四面を海に囲まれている孤島で山頂付近に警戒員を配置していないはずはない。今日のように快晴で霧もない天候の場合、海抜363mの山頂に居れば、水面より3m程度の高さにある漁船のマスト灯は40マイル(72キロ)の地点で水平線上に表れる。漁船は10ノットで進んでいたのだから、4時間前に発見できたはずだ。何者かが近接してくれば攻撃をしかけるか、少なくとも待避はするだろう。最も脆弱な上陸時に、攻撃をしかてこなかっ...たばかりか、付近にもいなかったということは、いくつか抑えたであろう水場の一つを死守するため、奥に下がった可能性が高い。どう転んでも、私が今登っている視界が確保できず、谷(水場)でもなく、待ち伏せを仕掛けるのに不適な、この傾斜地にいるはずは無いとよんでいた。なにより、このジャングルは、私が体験したことのない荘厳な一体感を持っていた。風、岩、土、木、葉、昆虫、蛇、ねずみ、やぎ、体温の有無を問わず、生命の有無を問わず、すべての物体の波長が寸分の狂いもなくかみ合い、完全に同化していた。ここに、人間は存在しない。存在できない。存在ばかりか、この島が誕生して以来立ち入ったことすらないであろう。ここには、自然の道理を理解せず、刹那的に自分のことしか考えない人間のような生き物の存在を許さない何かがあった。だからか、私の肉体は、ここの波長に同化して溶けてしまい、形としては存在していないような気分になっていた。二足歩行をしているというより、意志のみを持つ無色透明な私の魂は、音もなく気配もなく空中を浮遊しているようであった。
突然、正面から女性の声がした。何と言ったのかは、判らないが耳に残響が残っている。急に我に返った私は、肉体を持ち二足歩行している自分に戻ると同時に、その場にしゃがみ込んだ。声のした方向に意識を集中するが、まったく何の気配もない。ほんの5m、10m先で、声がしたのに、その方向には何も存在していなかった。そんなことより、反射的にしゃがみ込んだ私に驚いたのか、信じ難い数の蛍が一斉に発光し、自分の指紋が見えるくらいの明かるさになっている。いくら柔らかい光とはいえ、これだけ密度が濃いと、私のシルエットを浮き上がらせてしまう。それも私の周囲だけで、女性の声がした方向に明かりはない。こんな不利で恐ろしいことはないが、どうすることもできなかった。ただただ、じっとして蛍が落ち着いてくれるのを待つしかなかった。
しかし、あの女性の声は、何だ?? 人が居る?? そんなことあるわけがない。霊の存在なんか知らないけど、そんなもんがいたらややこしくてしょうがない。生きてる人間だけで精一杯なのに・・・、とにかく、そういうものはないと考えるようにしているし、自分は霊感なんか全くないと決めつけている。しかし、山にいると、ありえないところで人のしゃべり声が聞こえたり、人のような形をしたシルエットとよくすれ違う。
声の主は、”いつもの俺には無害のもの”なんだと決めつけて再び前進を開始した。
つづく(まだまだ)
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